おもいでをまっくろに燃やして / 阿部共実

 今を楽しむことは難しい。ぼうっとしていれば過去や未来に思いを馳せがちだ。私は大事な試験を半年後に控えており、もとより心配性なこともあって将来を案ずることがもはや癖になっている。その先も院試、就活と悩みは尽きない。そして特に午後8時前後(これは決まっている)、強烈な不安感に襲われる。その度にiTunesのプレイリストを開いては音楽を垂れ流してみる日々。

 「おもいでをまっくろに燃やして」の登場人物もまた、先行きが思いやられる境遇にいる。26歳無職の桃子、8歳不登校の水色。シングルマザーでありながら収入がない。おばあちゃんに頼って世話をしてもらっているこの状況は、私には絶望に映ってしまう。おばあちゃんが亡くなったらどうするのか?水色の復学は?状況が全く変わらないまま、たった2話で本作は完結する。

 ところで著者の阿部共実氏は「空が灰色だから」「ちーちゃんはちょっと足りない」など後味の悪い、具体的には将来への不安を強く感じさせる作品を多く書いてきた。その文脈に則り本作もまた救いがないと悲観し、苦みを味わうのも一つの楽しみ方ではある。

 しかし本作はぶん投げるような終わり方をしていながら、読後感は不思議と悪くない。前作とは違い、むしろすっきりとした後味が残るように私は感じた。

 また悲観で読み進めるのを止めてしまうにはもったいないというか、まだ解釈し切れていないだろうとも感じる。なぜなら散りばめられている"今"の描写を掬っていないからだ。それは桃子と水色が戯れている描写が続く点ばかりではない。日光で反射したコンクリート、散らかったゴミ、雑草、雨粒、エンジン音。身の回りのありとあらゆるモノに目を向け、詩のように綴っている。またそのどれもが美しくみえるように描かれていて、なんてことのない日常をむしろ耽美な情景として味わっているようにも見える。

 これこそ忘れがちな「今を楽しむ」感覚なのではないか。過去と未来を行き来する人間の意識今に帰ってくる。この帰還もまた幸せで、そこには在るべき場所へ戻ってきた、誰も知らない未来を案ずる必要がなくなった安心感が内包されているのだろう。

 なお心理学用語に「マインドフルネス」なるものがある。これは「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること(wikipediaより引用)」で、様々な精神疾患に対する有効な心理療法として世界に広まっている。

 前述したように解釈した上で定義を読むと、この考え方が本作にも使われていることが分かる。それほど今を楽しむ感覚は精神衛生上よいものであり、彼女らは幸せなのだ、と読み進める(強調されていると考える)こともできる。絶望的な境遇そのものが今を生きる幸せとの対比になっており、より際立たせる効果もある。

 したがって一番前面に押し出されているのは悲観ではなく幸福、と考えられる。それがすっきりとした読後感に繋がっており、今を忘れがちな人間に生き方を教えてくれる。

 今日できることをやっていればいい、勝手に繋がる明日がどうなるのか悩む必要もない。その螺旋がどこへ続くのかはその時にしか分からない。そう考えると少し肩の荷が下りる気がした。