世界の中心(空が灰色だから より) / 阿部共実

1.はじめに

 阿部共実著「空が灰色だから」(以下空灰)は背表紙に「うまくいかない日常を描く」とある通り、何らかの生きづらさを抱えた登場人物が多く登場する。そのバリエーションは内気な方面へ偏っており、虚言癖、自殺、真面目、潔癖症、あらゆるテーマが符号化されオムニバスという形で"消費"されていく様には忙しささえ感じる。中にはいくつかのパラレルワールドを挿入した実験的な試みがなされた回も存在し、著者がやりたいことはこの漫画だけで全てやってしまったのではないかと勘繰ってしまうほどだ(が、それは杞憂であり、連載終了後質の高い長編漫画をいくつも生み出している)。私はリアルタイムで追っていた訳ではないが、これが週刊ペースで連載され、更に5巻まで発売された事実が至極恐ろしい。本来そのテーマを膨らませて1本連載するのではと考えてしまうほど生き急いだ構成は刺激的であり、デフォルメ調の画風を好みいちいち視点がめんどくさい私を虜にした。

 私の中で印象深い回のひとつに第24話「世界の中心」がある。本作の終盤にある見開きは作品名で画像検索すると1行目に出てくる程象徴的なシーンとなっている(に違いない)。他第36話「ただ、ひとりでも仲間がほしい」の見開きも複数出てくるため、未読者に空灰はその手のホラー漫画だ、と誤謬を犯させる一因と化している(に違いない)が、残念ながらそのような展開の回は数えるほどしかない。ただどことなく共通して漂うメンタル系然とした趣で興味を持った読者もいる(に違いない)。

 今回は本作について考察を述べる。病理的な視点に基づいた考察も行うが、私は精神科医でもカウンセラーでもない上情報そのものが少ない。ゆえに信ぴょう性は極めて低いため、話半分として読み進めていただきたい。

 

2.「世界の中心」あらすじ

 空灰には一高、二高、三高、北西高校の4つの高校が存在し、ナンバースクールは数字が小さいほど偏差値が高い高校とされている(北西高校の位置づけは不明)。そして各登場人物の制服から高校を特定することができ、愛智は一高の2年に在学中と考えられる。進学校に通いつつスナップ誌に何度も掲載される容姿を持ち、小説の執筆活動にも熱をいれている(なお世に出した作品はない)ことから順風満帆である、ように見える。

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 が、彼女は人一倍自意識過剰であった。友達の髪型は自分の真似であると主張するのである。それが次第にエスカレートしていき、自分がバスの中で読書をし始めると他の乗客も読書をするようになる、流行りの小説は全て自分の小説のパクリであるといったように被害妄想の域に達する。更に自分自身の小説のプロットを読んでパクリだと声を荒げ、自己を見失ってしまう。

 そしてある日、周囲の人間全てが自分に見えるようになる。壁や床一面には目がびっしりとついており、一高の制服を着た彼女のような人物が大量に描かれている。しかし目のハイライトはなく全て真正面を向いており、また全てコピー&ペーストをしたかのように全く同じ形状をしている。

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 そして突如前述した見開きが現れる。大量の目と愛智の顔が降り注ぎ、数人の自分自身と共に笑顔で両手を広げている。このシーンは何を意味するのか。

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 最後にいとこが出産した赤ちゃんを見て「私の真似をしている」と狂乱し、本作は終了する。

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3.主人公のメンタリティーと着想の予測

 本作を読むと、愛智の心理状態は非常に病的にうつるのではないだろうか。

 雑誌に載った影響力で周囲が自分自身の真似をしていると疑った時点では、まだ思春期や有名人特有の自意識過剰さ故の疑念と考えることができる。従って自然な心理状態と言えよう(健全ではないのだが)。が、まだ誰の目にも触れていない自分の小説をほかの誰かが盗作した、全く関わりのない人間に監視及び真似されているという被害妄想は明らかに合理的ではなく、了解不能の域に達している(以下症状1)。

 そして目や自分自身のコピーのような人間の幻覚を見ることも、通常の精神状態ではあり得ない(以下症状2)。

 自分自身の小説のプロットが自分自身のパクリという主張もまた了解不能である。自意識過剰から離れ支離滅裂で、具体的には思考の一貫性が見受けられなくなる(以下症状3)。

 以上の症状から連想されるのは「統合失調症」である。DSM-5より統合失調症の診断基準を一部引用する。

 (A)以下のうち2つ(またはそれ以上)、おのおのが1カ月間(または治療が成功した際はより短い期間)ほとんどいつも存在する。これらのうち少なくともひとつは(1)か(2)か(3)である。
(1)妄想
(2)幻覚
(3)まとまりのない発語(例:頻繁な脱線または滅裂)
(4)ひどくまとまりのない、または緊張病性の行動
(5)陰性症状(すなわち感情の平板化、意欲欠如)

 症状1は(1)、症状2は(2)、症状3は(3)であると考えられる。

 が、これにて統合失調症と断定することはできない。なぜなら他の診断基準である、

 (B)障害の始まり以降の期間の大部分で、仕事、対人関係、自己管理などの面で1つ以上の機能のレベルが病前に獲得していた水準より著しく低下している(または、小児期や青年期の発症の場合、期待される対人的、学業的、職業的水準にまで達しない)。
(C)障害の持続的な徴候が少なくとも6カ月間存在する。この6カ月の期間には、基準Aを満たす各症状(すなわち、活動期の症状)は少なくとも1カ月(または、治療が成功した場合はより短い期間)存在しなければならないが、前駆期または残遺期の症状の存在する期間を含んでもよい。これらの前駆期または残遺期の期間では、障害の徴候は陰性症状のみか、もしくは基準Aにあげられた症状の2つまたはそれ以上が弱められた形(例:奇妙な信念、異常な知覚体験)で表されることがある。

 を満たしているのか、本作では不明瞭だからである。エピローグは存在しないためここから先を推し量ることは不可能だ。が、本作が終了した時点ではここから更に悪化することが見込まれる後味の悪い締めくくりとなっている。統合失調症を罹患してしまったと予測することもできるかもしれない。

 が、ここで疑問に残るのは「著者は統合失調症を想定して描いたのか」「意図された診たてなのか」ということである。そうとは限らないと考えられる事例として同著者の別作品「大好きが虫はタダシくんの」が挙げられる。詳細は割愛するが、こちらも主人公が非常に病的なふるまいをしていることで話題になった。がしかし、著者本人が「本作は実在の疾患をモチーフにしていない」と声明を出したのである。

 本著者の作品は前述の通り内気な題材が多い。空灰全体をメタな視点で読み題材を集積すると、ぼんやりと"内気"という人間性が見えるほどまとまりがある。これは著者自身もしくは周囲にいた特定の人間が元になっているからであると予測している。そしてその数多あるモチーフを1つのオムニバス漫画になりうるように"膨らませる"ことにより、すなわち漫画的に誇張して作品に仕上げている、と考えている。

 つまりここで記した症状とは、自意識過剰というモチーフで描かれたホラー風味の漫画的表現に過ぎず、こちらも統合失調症そのものを想定しているとは限らないとも考えられるのである。膨らませた結果意図せず実在の疾患に当てはまりそうな人物になってしまった、と考えるのが妥当であるのではないだろうか。全て憶測の範疇を出ず断言はできないが、考察の結論として便宜上述べておくことにする。

 ここまで述べておいて確かなのは「彼女は人並み外れた自意識過剰である」ということだけだ。こんな非生産的な考察あっていいのだろうか。

 

4.幻覚と見開きの考察

 幻覚の大きな特徴は繰り返しになるが、

  1.真正面を向いている

  2.愛智に似ている

  3.目のハイライトがなく不気味

である。これらは明確に意図してそう描かれており、読者に恐怖心を植え付ける一因となっている。

 この恐怖心こそが愛智の心情であるのは自明だが、それから更に考えられるのは「読者と彼女の心情を一体化させている」という意図である。幻覚が始まった途端、読者自身も犬神愛智という人間に没入させられていくのだ。

 そこにある心情は恐怖のみではない。強い自意識過剰さがある。誰かに見られている、という妄想がある。そしてその描写の必然性が確かにあるに違いないと考えた。

 幻覚が真正面を向いているのは単なるホラー的表現ではなく、「読者を見ている」からではないだろうか。つまり自分が何者かに見られている、という自意識を植え付けているのである。目の羅列が同時にあることもそれを裏付ける一因と考えられる。

 それを踏まえ見開きの考察に移る。これまでのように日常の中に幻覚があるという描写ではなく、突如として全く架空の世界に放り込まれたように見える。この唐突さこそがヒステリックな感情の起伏であると言えよう。

 よく見るとこの世界の(本物の)彼女自身は笑っている。今まで苦しんでいた表情から一転楽しそうなふるまいを見せていることもまた異様である。

 これは恐怖と相反する、周りから注目されることが嬉しい心理を描いていると考えられる。自意識過剰も一概に恐怖心に駆られている訳ではなく、そこに自分が目立つ存在である、注目の的であるという喜びもあった。「世界の中心」であることは甘くもあり苦くもある。ただそう思われたい欲求が独り歩きしエスカレートしてしまった。本当は喜びを噛みしめ注目され続けることが本望で、妄想の中で楽しく遊んでいるのではないだろうか。

 ただその光景は異様なのである。楽しさより恐怖が先行するように感じないだろうか。そしてこの次のページからは妄想や幻覚が消える。すなわち前述した一体化は行われていない。

 私はこの見開きが「読者と愛智との分離」を図っている、と考えている。読者にだけ恐怖心を地続きにさせつつ狂乱する彼女を俯瞰することができ、印象をより不気味なものにさせているのだ。自意識過剰と幻覚を用いて生々しい恐怖を追求した結果が、この見開きを用いた展開だったのである。

 

5.おわりに

 以上が世界の中心の考察である。空灰は一作一作が短い作品であるが、深く読み進めると様々な考察を行うことができる回も数多くある。しかし1つの回について掘り下げた考察記事はあまり多く出回っていない。「ガガスバンダス」はいくらか考察されていて、掲示板でも議論されていたようだが。何年も前に完結した作品とは言え熱心なファンが多いとのことなので、ぜひいろんな考察を読んでみたい。