7759(死に日々 より) / 阿部共実

1.はじめに

 「7759」は阿部共実著「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」(以下死に日々)2巻に収録されている短編である。また阿部共実かと突っ込むほど熱心な読者は居ないはずなので気にせず被らせる。

 私は単行本派ゆえ初対面は紙だったのだが、2巻ラストに置かれた本作を読み、それはいたく感動した。死に日々は次作「月曜日の友達」への助走とも考えられる作風の変化が顕著に見られ、具体的には「おねがいだから死んでくれ」「友達なんかじゃない」などのエッジの効いた路線から「8304」、そして本作のアンビエントな路線への変遷が如実に感じられた。そこで本記事ではこの7759の感想と考察を述べる。

 なおこの記事を読んだからと言って真髄を知ることはできない。7759はあくまで"漫画"なのだ。そこには絵があって、吹き出しがあって、ページがあって間がある。搾りかすを読んだところで味わい切ることは不可能だ。そして拙い内容ではあるが、一読者の解釈やネタバレを込めた本記事を読むことにより、読者が得るべき感動を二度と享受することができなくなるという不可逆性をも含んでいる。だから本作を読んでおらず興味本位で開いてしまった読者はまず死に日々2巻を購入して読んでほしい。オムニバスのうちの1つなので1巻は必ずしも読む必要はない。今現在Kindleで518円。Amazonで落とせば即パソコンで読むことが可能だ。

 

2.橘の性癖についての前提とあらすじ

 橘から連想される性癖はピグマリオンコンプレックスである。wikipediaより引用する。

ピグマリオンコンプレックスは、狭義には人形偏愛症(人形愛)を意味する用語。心のない対象である「人形」を愛するディスコミュニケーションの一種とされるが、より広義では女性を人形のように扱う性癖も意味する。なお、「ピグマリオンコンプレックス」という呼び名は、学術的に認識されている専門用語ではなく、流行語的ニュアンスで広まった和製英語の一種である点に注意を要する。

 このような特殊性癖のある橘が千夏という女性と同棲関係になる。ある日帰宅すると千夏が倒れており、あらゆる日常を想起した末橘も共に「人形になる」というのがあらすじとなる。

 

3.なぜ千夏は倒れたのかを考えるにあたって

 開始3ページで千夏が倒れ、橘の語りが始まる。この前後には錠剤、体調不良など意味ありげな描写がいくらかある。ゆえに様々な解釈ができるだろう。

 が、ここでは煩雑な叙述を避け簡潔に述べることにする。私が考えることができた説は

 ・千夏の持病

 ・橘がゼリーに薬を盛った

 ・ストーブ、ガス機器の不調による一酸化炭素中毒

の3つ。更に付け加えると千夏が死んでいるのかすら定かではない。少なくとも私の解像度では一意に定めることができなかった。

 同じ著者の漫画を挙げる。「空が灰色だから」の「ガガスバンダス」「こわいものみたさ」等では真相を明確に設定しない、所謂"ぶん投げ"をした。もしかしたらこの作品も最後まで推理し通せるロジックはないのかもしれない。だからこそ「答えがないから美しくない」と感じる読者もいるであろう。が、その謎こそ想像力を働かせられ、どこか地に足付かない味わいを生んでいると私は考えている。謎を謎のまま楽しむのも一興なのではないだろうか。答えのあるコンテンツはそれに辿り着いた場合、以後見方も一本道になるどうしようもない宿命があるが、本作品は常に揺らぎ続ける。これこそ私が惹かれた要素の一つなのである。

 

4.愛の揺らぎ

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 "異常"とされる経路で性を見出すことを人間的とみていいのだろうか。

 「人間的か非人間的かという議論はナンセンスだから考えるな」という答えは穏やかに見えて、実はマイノリティ側を突き放す考えである。誰もが人間的でありたい強い欲求がある。こう他人から理解されない、満たされるのを許されないことは耐え難い孤独であり、自己嫌悪に陥らざるを得ないのが性である。まして愛情という根源的な感情を閉ざさなければならない、これほどまで侘しいことはないだろう。だからそこに「人間的か非人間的か」を明確にする意義がある。

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 が、橘は生きている千夏に愛を見出した。これは彼の思う人間的な性愛であり、羨んでいた感情を抱くことができた。彼にも確かにマジョリティと同じ経路で愛を感じることができたのである。

 しかしそれは副次的なものに過ぎなかった。あくまでそれは取っ掛かりであり、やはり満たしたいのは異常性癖を辿った愛なのだ。決して治癒することはない、一生抱えていくコンプレックス。モノローグとして描写される誰も傷つかない日常が、異常性癖を満たす彼の心情との対比を生んでいる。人形のような人間で満たされることは彼にとって至極根源的な欲求である。が、日々満たされていた面もあって、本当に自身の性癖で満たされることは"正しい"のだろうか、と葛藤する。

 ところで、少し前に茨城一家殺傷事件の容疑者が逮捕された。彼は他人を殺めることに性を見出す、いわゆる快楽殺人犯であった。この行為を彼にとって人間的な生活をするなら仕方ないだとか、正当化する気は一切ない。ただ橘や彼のような異常性癖者が人並みに過ごすには、つまりこの境遇に生まれてきても別によかったと思えるようになるにはどうしたらいいのか、深く考えさせられた。

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 千夏のこのセリフこそ彼が思いあぐね続けた問いへの答えである。美しいと思える対象は人それぞれで、たまたま人と共有できない趣味ばかり持つこともありうる。ただ美しいと感じられる心があるだけで間違いなく人間的なのだ、と千夏は語ってくれた。一切身の上を明かしていないのにも関わらずまさに「大きな大きな幸運が急に落っこちてき」た。

 だが対象の意識を失わせることが欲求を満たすことならば、彼にとって愛は"消耗品"なのだ。千夏がこのまま死んでいたら死体が朽ち果てるまでの愛である。また意識を失っていただけでも、起きてまた同じような欲求を満たせる状況にあるのか(彼自身の心情も、ゆくゆく発覚するであろう異常性癖に対する千夏の反応も)。どうしても逃れられない現実がそこにあるのは変わりない。が、異常性癖を伴わない愛のまま満たされ続けるルートもあったはず。仮に千夏が死んでいたとして、ピグマリオンコンプレックスを持つ自分が嫌いならば、千夏の最期を素直に悲しむことが理想であった。それでも喜んでしまう自分がどうしてもあった。マイノリティとして人形を目の当たりにする喜び、過去のマジョリティとして交際してきた日常を想起する喜びが交錯し、揺らぎ続ける。

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 落ちてきてそのまま目の前を通り過ぎていく幸運は、もう地の奥深くで眠っている。

 

5.おわりに -死に日々という漫画の中での位置づけ-

 死に日々は背表紙にある通り主に「満たされない人々」を描いた作品であり、そのテーマは女子高生の失恋(深い悲しみ)、27歳独身の欲求不満(アルティメット佐々木27)など多種多様である。ただそれらは満たされることが倫理的に許されているという"救い"が必ずあるのだ。短編の中で満たされることのなかった登場人物も、もう少し続いていれば傷が癒えているかもしれない、状況が好転しているかもしれない。

 ただ本作の核である異常性癖はそれを満たすことそのものが許されず、それどころか他人に開示することすら憚られる。気を失った人間を愛でたいという欲求を現実世界で意図的に満たそうとすると、必ず倫理に反する行為が伴う。満たされない不満、その手前にある不満。未単行本化の3話含め死に日々の中で最も救いのないテーマであり、特別な位置づけであると私は考えている。

 しかし確かに満たされている。愛する千夏と共に同じ人形と化すラストは最高のハッピーエンドなのだ。絶対に満たされるはずもなかった欲求が満たされてしまう、これ以上の救いはあり得ない。幸福であればあるほど背徳感が増す、そのジレンマが本作独特の読後感を生んでいる。