日常、日常系作品について

 人間は誰しもタイムトラベラーであるらしい。道を歩いていればいつの間にか過去の出来事を思い出したり、将来について案じたりする。こうして回想と展望を繰り返し、今見ている景色も匂いも見失うのだ。今まさに入り込んでいるはずの日常へ寄り添うのは、時にどうにも難しいと感じる。

 ではなぜ人間は過去と未来を往来するのか。

 1950年代、カナダで感覚遮断の実験が行われた。煩雑になるため詳細は省くが本実験によると、人間は長時間感覚を断たれると幻覚を見るようになるという。幻覚を見るメカニズムは諸説あるようだが、これについて私個人の死生観を交えながら私見を述べる。

 まず人間は「何かを感じ取ること」で自分が今ここに生きている証明をしているのではないか、と考えている。何も聞こえない真っ暗闇では、生きているのか死んでいるのか分からなくなるように。だから感じ取る刺激があまりにも少ないと自分を見失ってしまう。そこで幻覚という視覚的な刺激を作り出すことにより、すなわち刺激の補完をし、存在を確かめるのである。

 これがタイムトラベルの正体であると考える。感覚器が鈍ると、現在に直面しても受け取る刺激が少なくなる。持て余した我々は回想と展望という名の幻覚を引き出し、疑似的に刺激を作り出す。

 だから日常を味わうには感覚器を呼び覚ます必要がある。しかし馴化して無味乾燥に思えるようになってしまったこの世界をもって、再び活性化させるのは難しい。

 これを解決するのが日常系作品である。まず作品に没入する。これが大体面白いようにできていて、人間がかわいいだとか風景がきれいだとか、いろいろなことを想う。次に「今」というものをありのままに感じ取る感性を取り戻す。そして回想と展望で埋め合わせた刺激ではなく、この日常から享受する刺激の尊さを再確認する訳だ。

 そういえば日常を味わい切っていない、かと言って空想らしい空想でもないどこか上の空な離人感は、どうにも満たされぬ空虚を感じるものであったと、逆説的な気付きもあるかもしれない。

 しかしアニメにしろ漫画にしろ、ここで使うのは視覚と聴覚のみである。味覚と嗅覚、触覚はどうしても活性化させることができない。

 そこで行うのが聖地巡礼だ。作品に登場した道を歩いてみる。建物を訪れ触れてみる。飲食店へ立ち寄り同じ食事をしてみる。没頭した、しかしここではなかった世界へ、確かに直面している。楽しい今が「今」にあるのだと、あらゆる感覚器を覚まし、作品の日常と我々が存在する日常を統合するのである。

 こうして原作も存在しない日常の豊かさを思い出し、今をもって存在証明をし続けることができるのであった。